Vol.23 “手段”と“目的”を、はき違えてはならない。
5月30日(月)、週プレがとんでもない記事を出した。
IOCの選択は以下の3案のどれかになる公算が大きい。
(1)「JOC委員を全員罷免し、新執行委員会をつくるよう勧告」
(2)「IOC臨時総会を開いて東京五輪中止を決定。代替地にロンドンを推薦」
(3)「IOC浄化のため、今後の五輪開催予定を白紙化する」だ。
「ただ、(1)案はあまりもに甘く、フランス検察の追及がさらに厳しくなりかねない。おそらくIOCは(2)案か(3)案のどちらかを選択するでしょう」
フランス検察がJOC関係者の喚問要求を突きつけるXデーは「革命記念日の7月14日から、リオ五輪開催日の8月5日の間」(前出・ユマニテ紙記者)と目されている。
…ソースの信憑性が少々気になるが、もしこれが事実なら、2020東京五輪返上どころの話ではない。1896年からはじまった近代五輪の終焉にも繋がりかねない話だ。
でも正直、はぜとしては、一度終焉した方がいいのではとさえ思ってしまう。
“手段”と“目的”を、はき違えてはならない。
スポーツとお金は切り離せない。これは事実だ。
例えば、友達と公営スポーツ施設でスポーツをするにしても、使用料(冷暖房代やナイター代)や道具を借りるにはレンタル代が必要だし、場所によっては、駐車場代やロッカー代もかかる。地域スポーツ団体がイベントや大会を開催するなら、チラシ作成など広報費、イベント保険、参加賞や賞状なんかも要るだろう。KON●MIなどのように質の高いフィットネス系プログラムを提供しようと思えば質の高い指導者を雇う必要があり、人件費もかかる。
しかし、スポーツとお金の関係を考えるうえで、絶対に間違えてはいけないことがある。
それは、スポーツにおいてお金を稼ぐことはあくまでも“手段”であり“目的”ではないということだ。これを間違えた途端、スポーツは金稼ぎの道具に成り下がる。
五輪に話を戻したい。
そもそも、古代ギリシアではじまった古代五輪の目的は、神々を崇めるための神域における体育・芸術の競技祭だった。しかし、ローマ帝国に支配され、国教がキリスト教となりオリンピア信仰を維持することは困難となったため、393年をもって古代五輪は終焉した。
つまり、神々を崇める祭典という目的が果たせなくなったから、古代五輪は終焉した。
では、近代五輪はどうなのか。
このJOCのHPがかなり分かりやすい。
スポーツを通して、体と心をきたえよう、世界のいろんな国の人と交流しよう、そして平和な社会を築いていこう。それが、クーベルタンがオリンピックを復活させた目的だったんだよ。この考えのことを、「オリンピズム」っていうんだ。ほら、オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義があるっていうだろう?スポーツの祭典であるオリンピックは、このオリンピズムという理念に支えられた、世界的なスポーツ競技大会なんだ。
スポーツの真の素晴らしさは目に見えない
スポーツは、選手が互いに人としての限界を出し合うからこそ分かりあえ、観る人の心を打ち、それが平和に繋がる。
自国の勝利やメダルの数が全てだという考えだから、敗者へ『共に闘ってくれてありがとう』という感謝の念すら示さないから、スポーツに全く興味のない人は「メダルをたくさん獲って…で?」という反応をする。当然のことだ。五輪が、単なる国際競技大会ではなく、平和の祭典だと理解している人はどれほどいるのだろうか。
第3回WBCで台湾ナインが見せたお辞儀と、日本が掲げた感謝のプラカード。
はぜは、あれこそがオリンピズムではなかったかと思う。スポーツが見せる、勝敗や国境を超えた先にある見えない何かが、真のスポーツの素晴らしさだと思う。
なのに、お金や施設やメダル…五輪はあまりに、目に見えるものを追い求めすぎた。今一度、目的に立ち返らなければならない。
「かんじんなことは目に見えないんだよ」